2017.05.26
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DC史上最大の衝撃作

『アイデンティティ・クライシス』

今回は、長い歴史を持つDCコミックス史においても、そのテーマ性によってファンに大きな衝撃を与えることとなった問題作『アイデンティティ・クライシス』を紹介します。

アイデンティティ・クライシス(2017.3.30発売)

[ライター] ブラッド・メルツァー
[アーティスト] ラグス・モラレス
[訳者] 秋友克也
[レーベル] DC
本体3,300円+税/B5/P264
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ヒーローが正体を公表するとどうなるか

アメコミヒーローの活動スタイルは大まかに言って2つに分けることができます。
それは、自身の正体を公表しているか、していないかというもの。
細かく分けるとすれば、
・公私ともに自身の正体を公表しているスタイル
・ヒーローコミュニティでは本名を公表しながらも、世間的には公表していないスタイル
・公私ともにその正体を隠し続けているスタイル
……など、いくつかのスタイルに分けることができますが、個々人のヒーローがそのスタイルを選ぶ理由は、それぞれの主義主張や出自などが関係していることが多いです。
ただし、公私ともに正体を公開しているパターンは非常に少ないと言えるでしょう。
なぜ、彼らの多くは正体を隠して戦うのでしょうか?
その最大の理由として挙げられるのは、恐怖です。自身の正体を公表することにより、身近な人達が危機にさらされてしまうかもしれない…。多くのビランを叩きのめしては牢獄へと送り込んで来たヒーローにとっては、正体を公表したら、自身の大切な家族や恋人、友人がビランの標的になってしまうことは必至。そうなれば、プライベートにおいても休むことなく戦い続けなくてはなりません。
この「ヒーローの家族や友人が人質にとられ、危機に陥る」という状況は、これまでヒーローコミックスにおいて、それこそ何度となく描かれてきた定番パターンでもあります。そうした危機的な状況を回避して勝利するヒーローもいれば、時に大切な人間を失ってしまうこともありました。
ただ、「ヒーローが正体を公表するとどうなるか?」というテーマは、ストーリーの一要素になることはあっても、これが物語の大きなテーマとして掘り下げられたと言える作品はありませんでした…・・・本作『アイデンティティ・クライシス』が刊行されるまでは。

あるヒーローの妻の死

ジャスティス・リーグの古参メンバーであり、その正体を世間に公表しているヒーロー、エロンゲイテッドマンことラルフ・ディブニー。
ある夜、同僚のファイヤーホークと共に武器の密売現場を押さえるための張り込みを行っている間に、彼の妻スー・ディブニーが何者かに殺害されてしまいます。
多くのヒーローたちの良き友人であり、ジャスティス・リーグ・インターナショナルの名誉メンバーでもあったスーの死は、ヒーローたちに大きな衝撃を与え、自分の家族も傷つけられるかもしれないという不安を植えつけました。
スーを殺害したのは誰なのか? 容疑者として真っ先に浮かんだのはドクター・ライト。彼とラルフにはある因縁がありました。しかし捜査は混迷を極め、やがて浮かび上がってきたのはヒーローたち自身が抱える大きな矛盾と葛藤、そしてさらなる悲劇でした……。

タイトルに込められた意味

ヒーローの妻が殺されるという、衝撃的な事件から幕を開ける本作は「犯人は誰なのか」を探るミステリ仕立てで展開されます。加えて登場人物それぞれの人間関係が丁寧に描写されているため、ヒーローたちの心情にもかなり踏み込んだ上で話が進んでいきます。
読み進めるうちに、タイトルとなっている「アイデンティティ・クライシス」には、複数の意味が込められていることがわかります。
まず、アイデンティティには「身元、正体」という意味があります。冒頭の殺人事件は、ヒーローの正体が公表されていたために起きたと推察される事件でした。
そして、愛する人々が危機にさらされることで、ヒーロー達のアイデンティティであるヒーロー活動が行えなくなると、つまり「自己喪失の危機」という意味合い。
さらに物語の中盤で明かされる、ヒーローたちがかつて行ったある行為は、ヒーローとしてのアイデンティティに暗い影を落とすのです。
こうした、ヒーローという存在の根底を揺るがす物語を構築した本書のライターは、小説家のブラッド・メルツァー。重厚で読み応えがあるストーリー、読者に心の痛みを感じさせる描写などは際立っています。物語は陰鬱で、ヒーローコミックが持つカタルシスを期待して読むと、その落差に衝撃を覚えることでしょう。しかし、ヒーローという存在を真正面から描ききった本作は、ヒーローコミックファンならば必読。これまでも、陰鬱なストーリーや残酷な描写のヒーローコミックは数多くありましたが、本作は、これまで描かれてこなかった前述のような要素を織り交ぜたことで、ヒーローコミックの持つ表現の幅をさらに広げてくれたように思います。
DCコミックス史上、最も物議を醸した本作を読んで、ヒーローコミックのさらなる奥深さを体感してみてください。

文・石井誠(ライター)